セミといえば。
伊豆の天城の少し手前に落合楼という古い宿があって、ここがおそらく僕の記憶に残る最初の宿なのだが、訪れるのはきまって夏だった。
偶然にも、僕のもっともひかれる文章のひとつである梶井基次郎の『蒼穹』は、この落合楼と、そのそばの湯川屋というところに梶井が療養のために投宿していたころ仕上げたものであるらしい。というのを知ったのは、高校で『檸檬』に出会った直後だからだいたい10年くらい前か。
- 私は眼を溪の方の眺めへ移した。私の眼の下ではこの半島の中心の山彙からわけ出て来た二つの溪が落合っていた。二つの溪の間へ楔子のように立っている山と、前方を屏風のように塞いでいる山との間には、一つの溪をその上流へかけて十二単衣のような山褶が交互に重なっていた。そしてその涯には一本の巨大な枯木をその巓に持っている、そしてそのためにことさら感情を高めて見える一つの山が聳えていた。日は毎日二つの溪を渡ってその山へ落ちてゆくのだったが、午後早い日は今やっと一つの溪を渡ったばかりで、溪と溪との間に立っている山のこちら側が死のような影に安らっているのがことさら眼立っていた。
『蒼穹』は『筧』『闇の絵巻』とならび梶井の「闇三部作」とされるらしいが、なかでも『蒼穹』にひかれる理由は、ひとつには読むたびにその情景が実体験のような視覚であぶりたつからにほかならない。自分の記憶に広がる天城山間の情景と、梶井の行間からうきたつ世界はだから相互に補完し合って、なにが本当ともつけがたい景色をかたちづくっている。
あの「十二単衣のような山褶」にこだますうるさいばかりのセミの声は、果たしてどこまでが実際か。それはちょうど、気を抜くとまるで意識をとばされてしまいそうになるその大合唱、あるいはそれこそ、『蒼穹』最後の一節にあるあの戦慄的一句のようなどこか心地良い酩酊感とともに、時折僕を悩ませる。